赤穂御崎と大避神社(おおさけじんじゃ)へ /To Ako Cape and Osake Shrine, Trip to Ako

大避神社(おおさけじんじゃ)

ひさしぶりの播州赤穂

2022年11月2日(水)朝早くからドライブ兼ねて、古代史・考古学にくわしい東京から岡山に逗留し吉備地方の未だ歴史が解明されていない、古墳や巨石群や、桃太郎伝説で有名な鬼ノ城などを探究している友人と、赤穂の大避神社を訪れました。

 

赤穂市は、兵庫県の西南端、岡山県境に位置し、南は播磨灘に面し、海岸線は瀬戸内海国立公園の一角に属し、気候は温暖で雨量が少ない瀬戸内海型気候です。市は、先土器時代等の古代遺跡が多く残る北部、河口デルタ上に発達した旧城下町の都市部、塩田開発によって開発が進んだ南部、自然の港に恵まれた坂越地区の特色ある4地区に大別されます。赤穂で一番有名なのは、赤穂城の城下町として発展し、後に”忠臣蔵”として語り継がれる赤穂事件ゆかりの地で、赤穂浪士の故郷として知られています。赤穂浪士の名残がある観光名所の赤穂城跡を含め点在していますが、他にも海岸沿いに沸く赤穂温泉や牡蠣、赤穂の塩、瀬戸内海の幸が楽しめます。赤穂御崎で撮影した動画も載せておきます。

https://youtu.be/U7NM3KBuW60 Ako Cape Movie, 赤穂御崎

 

大避神社の起源は大陸から

今回お目当ての大避神社は、日本の古代史は非常に分かり難いのですが、以前から複数の書籍を読むと、日本古来の有力人物は渡来人だったことが判って来たので、大避神社は、そのゆかり深い場所と知り、故郷に近いため、訪れたい場所のひとつでした。大避神社は、海を望む、小高い山の中腹にあって、ここから海の向こうに見える小さい島が生島(いきしま)です。学校の日本史でも習った渡来人の秦氏は、応神天皇の283年頃渡来とされており、同時代の渡来人は、聖徳太子物部氏蘇我氏などです。ある文献によると、「避ける」という字は昔は門構えの中にあり、大闢神社だったとあり、『闢』という字は「びゃく」と発音し大闢=だいびゃく=ダビデを表すそうで、中国語でも大闢はダビデを意味するそうです。

 

大避神社は、その秦氏が開設した神社であると言えます。秦氏とは、日本書紀によると「応神天皇14年、283年に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記され、弓月君(ゆづきのきみ)を秦氏の祖とする一族」と記述があります。秦氏は、来日後、日本全国特に西日本各地に散らばり寺社を建てた形跡が見られます。著名なところでは、京都太秦広隆寺」,奈良県田原本町秦楽寺」、京都市太秦森ケ東町「木島(このしま)神社」、京都市東山区「八坂神社」, 京都市北区上賀茂神社」,京都市左京区「下賀茂神社」,※賀茂神社秦氏支族である賀茂氏の神社, 京都市西京区松尾大社」,大分県宇佐市宇佐神宮」など多くあります。

 

最も大避神社は、秦河勝(はたのかわかつ)大避大神として祀っており、秦河勝は、主に聖徳太子の側近として知られますが、そのルーツを辿ると古代中国の秦の始皇帝に遡るとされ、飛鳥時代には秦氏の族長的人物であったとされます。毎年10月12日に同所で大きな祭りが行われますが、この日は秦河勝の命日と伝えられ、坂越の船祭りは、神社の秋の祭礼となっています。祭りでは、和船が先導し、神輿は船に乗り湾内を巡航したのち、普段は立ち入り禁止の生島の御旅所へ赴きます。2012年国の重要無形民俗文化財に指定になりました。

 

秦氏は7~12世紀(飛鳥-平安時代)に赤穂郡にいた足跡が数々あり、つまり秦河勝は、多くの大陸文化、音楽や宗教、機織り、酒造、建築法などを伝え定着させた人物で、文化人でもあり政治家でもあったと考えられるのです。聖徳太子が世を去った後、京都太秦を本拠地としていた秦氏は、蘇我氏からの迫害を避け、赤穂の地に辿り着いたと言う説があります。その証として、世阿弥は「風姿花伝に「(能楽の祖とされる秦河勝が)播磨の国しゃくしの浦につく」と記しているようです。能楽の祖である河勝が、赤穂の坂越浦に着いたと言うことと解釈できます。

 

現在も、秦河勝を祭る大避神社が赤穂郡には約20社あり、秦氏の伝説が色濃く残ります。今度、同所で写真に収めたのですが、神社に掲げられた外国風な人物や装束、能楽などの絵画を(下記写真添付)を眺めていると、事実はその謂われ通りだと感じられました。秦氏は、その後、貴族や大寺院に利権を奪われ、農民になったとも伝えられていて、秦氏の存在が忘れられている今も、赤穂にはこれらの伝説を残し続け、秦河勝は、当時の日本の国に大きな影響を与えた人物であったことが窺えます。

 

*司馬遼太郎ペルシャの幻術師」表短編集の「兜率天の巡礼」の話には、舞台赤穂、 大避神社、秦氏に関して興味深い内容があります。

 

この辺りまで遡る古い本当の深い歴史は、学校では学べません。秦氏の存在やダビデとの繋がりなどは、いつかこちらで書く機会があればと思っています。

 

 

youtu.be

Festival of Sakagoshi, 坂越の船祭り, 


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To Ako Misaki (Cape) and Osake Shrine

Trip to Banshu Ako

On early in the morning, I enjoyed to travel with my fried from Tokyo, who is a well-familiar in ancient history and archeology from Okayama to the Osake Shrine in Ako and Ako Cape in Hyogo Prefecture by car on November 2, 2022.

 

Ako City is located at the south-west of Hyogo Prefecture, on the border of Okayama Prefecture, facing the Harimanada Sea to the south, and the coastline is part of the Setonaikai National Park. The city is divided into four distinctive districts the northern part, where many ancient ruins from the Pre-Pottery Age remain, the urban area of ​​the old castle town that developed on the river mouth delta, the southern part which has been developed through the development of salt fields, and the Sakoshi district which is blessed with a natural harbor.

 

The most famous place in Ako is the area related to the Ako Incident, which developed as a castle town of Ako Castle and was later handed down as "Chushingura", and is known as the hometown of Ako Roshi.=Samurai. It is dotted with Ako Castle Ruins, a tourist attraction with remnants of Ako Roshi, but you can also enjoy Ako Onsen (Spring), oysters, Ako Salt, and delicacies along the coast of Seto Inland Sea.